Interview

井手先生へのインタビュー

井手先生へのインタビュー記事や過去に出演された番組を紹介します。


ユキオ・リピット氏によるインタビュー

美術雑誌Orientations に収載されたインタビュー記事(原文英語)の一部を日本語訳して以下に掲載します。
出典:Yukio Lippit, ‘An Interview with Professor Ide Seinosuke of Kyushu Unibersity’, Orientations 56, Number2, MARCH/APRIL 2025, pp.2-13

Yukio Lippit(以下YL)―井手さんは仏画研究によってとりわけ著名ですが、研究者としてのキャリアを夏珪および南宋院体山水画研究によってスタートされています。このトピックを最初に選んだ理由を聞かせていただけますか?
Ide Seinosuke(以下IS)―平田寬・菊竹淳一両先生から、大学4年生になる前に山下善也君と一緒に呼び出され、これからは東アジアの視点をもって研究をするのが重要になるので、一端、中国をやってみてはどうかといわれ、山下君は、それまで通りに狩野派をやりたいと伝え、井手は、しばらく考えさせていただいて、それまでの応徳涅槃から中国へ変えることにしました。両先生は、おそらく中国の仏教美術を想定されていたようでしたが、一番、素晴らしいと思う作品を選択するのがよいと考え、郭煕の早春図と林泉高致集について研究をはじめるようになりました。決めたのは6月半ば頃。ちょうど美学の今道友信先生が集中講義にお見えになったのですが、『東洋の美学』を出版されたばかりで、その表紙にもやはり早春図が使われていたこともあって、この作品の重要性を改めて思いました。それから小川裕充先生のイマジネーションの論文や模写についての戸田禎佑先生のいろんな論文を読み始めました。まだ鈴木敬先生の『中国絵画史』上巻は出版されていませんでした。そんな時代です。夏珪は、大学院での仕事。平田先生から時代を少し下げてみたらどうかと言われたのがきっかけでした。大陸に出向き、台北も訪問したりしていましたが、ちょうどEight Dynastiesの巡回展があって、実物を見た中で、ネルソンの夏珪の水墨表現に興味をもったことがありました。郭煕では山の三遠論を考えたりしていますが、それは、夏珪の様式論のベースになっています。恥ずかしい議論ですが、リーグルの近視的、遠視的という空間の捉え方の変遷についての議論を、宋代絵画史の山水画の様式変遷に援用しています。

YL―井手さんのお父様の井手誠一氏(1928-1980)は、佐賀を拠点に活躍された油絵の画家ですね。井手さんの美術史家としてのアプローチの数々は、画家の息子という事実から何らか影響を受けておられますか?
IS―父は、地元ではそれなりに有名な画家でした。ブルデューではありませんが、文化的資本という観点からみれば、父が銀行をやめて画家になり、制作の旅に出向く以外は人との交流や仕事の場が家にあったことは重要でしょうね。父母の影響は絶大だと思っています。父が病床にあったこともあり、美術史に行くことを最終的に決めたのは大学に入ってからです。もともと19世紀のフランス絵画に興味があったのは父の影響でしょうし、それと関係し、70年代中頃、NHKの教養番組で高階秀爾先生の「印象派の時代」という10回程度のシリーズを見たことでしょうか。高階先生は、後に國華賞をいただいた時の選考委員長ですが、別の機会だったでしょうか、先生は、このシリーズを30代のベストの仕事だといわれていました。自宅では、しばしば地元の文士との宴会が多く、それに参加させられていましたし、ギターを弾いて歌をうたったりしていました(笑)。父の履歴で意外と重要なのは、父はもともと陸軍幼年学校(熊本46期)、陸軍士官学校(61期)だったことです。陸士の61期は、じつは華厳思想の研究で著名な鎌田茂雄や一休宗純や禅文化の研究者であった蔭木英雄と同級生となります。

YL―井手さんの九州大学における指導教員で恩師でもある美術史家の平田寬氏の仕事や功績について知っている若い研究者は、最近ではあまり多くありません。平田氏の研究上の業績について井手さんはどのように考えておられますか?
IS―平田先生の講義は、ずっと絵師論で、最初の因斯羅我から明兆の時代までの全てを聴講した稀な学生が私かも知れません。若い頃、平田先生の議論を相対化できる力量はありませんでしたが、東京文化財研究所の秋山光和・柳澤孝両先生方の絵画史研究とは異なる視点からの議論であったことは間違いなく、平田先生もそのことを強く意識されていました。平田先生は、敬虔で深くカトリックを信仰されていて、美学演習では、スコラ哲学者だったエチエンヌ・ジルソン (1884–1978)やジャック・マリタン (1882–1973)の芸術論についての著作をフランス語のテキストを使って読まれていました。
平田先生は、バクサンダールのいうような時代の眼があるとすれば、その眼を養っている精神・叡智・知見に重点を置かれていたように思います。立派という言葉がお好きでしたので、やはり美やfineでしょうし、晴(非日常・公的・聖)と褻(日常・私的・俗)の対比では、圧倒的に前者ですが、お酒で脱線も少なからずありました。時代精神・叡智・知見を考察し、その一端が、画師・絵師の手技をとおして実現されているという考えでしょうか。重源、明恵、叡尊が、その代表です。そのために高僧や知識人の役割を重視され、その働きが絵師たちと分有されていることの関係性をいつも考えておられました。
この質問と関係して、私の九大時代の恩師は、平田先生だけでなく菊竹先生でもありました。菊竹門下の最初の学生が、井手と山下君他です。
私は東アジア的発想の多くを菊竹先生から受けています。菊竹先生は、境界の島の対馬のことを、地に足をつけてはじめて踏査され、高麗仏画や仏像の研究をはじめられ、信じられないくらい精力的に学生を連れて九州各地の社寺の調査をされています。私の助手時代までのかなりの時間は、この社寺調査と資料整理に費やされています。ローカルを無視しないという点において私を育成した糧になっているのは、おそらくこの九州各地での社寺調査です。

YL―井手さんの最初期の論文-これらは今なお強い影響力をもっていますがーは、中国の肖像画制作、とりわけ禅僧の見心来復と中峰明本に関するものです。中国における肖像画制作は今日でも研究が十分でない分野であり、だからこそ、1980年代に井手さんがこの研究をこれほどまでの精度で実現したことは特筆すべきことです。井手さんのこの分野への関心はどのようにして生まれたのでしょうか?
IS―一言でいえば、偶然です。
私は大学院まで社寺調査に時間をとられ、その一方で夏珪の山水画について研究をしていましたが、修士2年を終了しただけで博士課程に行かずに私は24才で助手になりました。山水画の研究は、先生方のメニューにない領域だったこともあって、助手になる前は、ローゼンフィールド先生に頼んでハーバード大学へ留学させようとも考えておられたようでした(私にとっても無茶振りな話でしたが)。先輩の䑓信祐爾さんが東京国立博物館へ採用され、急遽、私が助手になりました。先生方は、私を如何にして学会にデビューさせればいいのか考えられていたはずで、ちょうどそこに佐賀の山中で見心来復像がまさしく出現しました。1984年の11月でしょうか。初めての調査が12月上旬でした。それをもって学会発表することになり、レジュメ提出が1985年2月。全国学会が大阪大学で5月開催。論文提出が10月で、1986年1月には美術史119号に論文掲載となりました。この間わずか一年間。ゼロから走ってまとめた論文でした。禅僧の名前もおぼつかない状況下、まだ若かったので体力もありました。短期間で想像以上に東アジア的観点からも議論できたのは、島尾新さんの初期詩画軸の様相という論文をとおして、当時の日中禅林の関係についての観点を把握し、また島尾論文の註釈で、大西廣氏が禅林文化の国際性について口頭発表されていることなどを知り、履歴不明の以亨得謙について、想像以上にモノ資料としての墨蹟が伝存していたからでしょうか。大学に着任してから再考する論文を書いたのは、時代も観点も変わり、全体が見えるようになってきたので、再度、よき材料として論じたくなったからです。中峰明本は、見心来復像の研究での課題を継続し、より総合的に深めたいと思った次第。夏珪までは文献がなく、時代の網目にまで入っていくことがむずかしい領域でしたが、見心来復の研究をとおして、人と人の関係性のネットワークの中に作品が生まれる機縁があることが自覚されるようになったものと思います。

YL―1986年から2004年まで、井手さんは東京国立文化財研究所(現・東京文化財研究所。以下、東文研)に勤務され、多くの影響力のある刊行物を公にされたほか、とりわけ、中国、朝鮮半島の仏教美術研究を牽引する研究者としてのご自身の立場を確立されました。大学とは異なる当時の研究所に勤める人々は、あなたの学識や見識にどのような影響を与えられたのでしょうか?
ISー研究所での時間は、夕方までは画像処理や研究資料のデーター化。2年間は、データベースの構築以外に特に画像処理の仕事に忙殺され、夜も休日も居残りで仕事をしていました。しかし、九大に較べて資料と図書がたくさんありました。何よりも先輩諸氏や来訪してくる研究者に示唆されて研究も進めることができました。そこで最初に書いたのが中峰明本の論文ですが、これは九大時代からはじめていた内容です。九大では、私の上の世代は、もう菊竹先生と平田先生となり、年齢差は20才以上も離れていましたが、研究所では、当時、30代の研究者、あるいは東京の研究者の関心事がどこにあるのか、それこそ日常的に苦労しながら学んでいく事が少なくありませんでした。研究資料の共有化と研究のプライオリティという旗を、米倉迪夫、鈴木廣之、島尾新、中村節子さんという素晴らしい先輩とともに掲げ、時と場を共有できていなければ、今の私はないと思っています。従来の権威的ディスコースに対して意義申し立てを行うという意味では、60年代の学生運動の気運が持ち込まれていたのかもしれません。
研究所では、ニューアートヒストリーの移入という問題があったと思います。米倉・鈴木・島尾氏が主導され、創刊間もないバークレーのRepresentations誌からいくつか論文を読む研究会もありました。アルパースやバクサンダール他の研究者の名前や研究を知ったのはその頃ですが、どれほど熟知したかとなるとディテールはいい加減だったかも知れません。観者の役割や社会との関係を視野にいれて作品を語ることの重要性を学んだのはその頃で、1993年の陸信忠の論文に反映させています。ちょうど絵は語るシリーズが企画され、その著者の世代より若い世代の私や長岡龍作さんらは、岡田健さんも含めて、自分たちなりに新しいアプローチを示そうとしていました。井手の陸信忠の論文は、100枚を超えていたと思いますし、普賢行願品と高麗仏画の論文もそうでした。長岡さんや岡田さんの國華賞の論文も、いずれも絵は語るシリーズよりは次世代の研究者によるものですし、制作背景としてのコンテクストをかなり深掘りするようになっていたと思います。
もう一つの研究所でのトピックは、美術の制度にかかわる議論です。日本東洋の古美術を専門とする研究者も含めて、美術の移入と制度化の問題を議論することとなり、その科研費への申請やシンポジウム(「今、日本の美術史学をふりかえる」1997年)の開催、報告書(『語る現在、語られる過去』1999年)のとりまとめを行いました。井手は、そこで責任者として介在し、研究観点を固めていく機会となりました。2002年の「動くモノ―時間、空間、コンテクスト」というシンポジウムでも、鈴木廣之さん、島尾新さん、山梨絵美子さん、田中淳さんらと共に私は、かなりその方向性について意見しました。
自分の専門性では、しばらく画像処理に時間をとられ、将来的に如何なる分野を自分のものとするのか悩んでいました。ある日、鈴木敬先生による羅漢図と十王図に関する全国寺院調査の写真が台紙貼りのまま未整理で放置されているのを偶然発見したことが機縁となって、宋元仏画研究を高麗仏画と併行して実践することが閃いて、すぐさまそれにとりかかるようになりました。その手法は、部分的に九大時代での地方の文化財調査の記憶を過去に投影し、平田先生の絵師論をかりつつ、また菊竹先生の東アジア的広がりを意識し、宋代以来の山水画や人物画研究で形成してきた思考などを総合的に動員しながら進めるものだったかもしれません。

YL―東文研において、井手さんはカメラマンの城野誠治氏と共に高精細のディジタルコンテンツの制作に従事され、著名な作品についての驚くほど多くの新たな情報を得られています。このコラボレーションについて、そしてこの仕事の重要な点についてお話いただけますか?
IS―城野氏とのコラボ以前、じつは九大時代には、しばしばソフトX線を利用する調査を行っていましたし、研究所でもはじめ2年間は画像処理に従事していて、私の所属が情報資料部だったことも関係し、この種の仕事は、研究所の美術史研究者がカメラマンと連携して進める課題であると自覚していました。美術写真のディジタルへの移行という問題でもあり、『Light&Color』に書いていることは今も重要に思っています。コンテンツの素晴らしさは何よりも必要条件ですが、それに伴う案件で、この仕事のもっとも重要で難しい問題は、従来の美術史研究者と写真家との関係性をも相対化してしまうことです。私は、美術の制度化の問題の一環としても、このプロジェクトの重要性を理解していたつもりですし、そう思わないと継続できないような所もありました。人間の視覚から独立した伸縮自在な様態をもつ城野式ディジタルコンテンツは、さまざまな観点に関心をもつ人々に対してオープンで、従来の美術史研究者の眼をとおした記述等も含めて、批判にさらしていくことがあります。従来型の美術史の記述に必要な映像にも変化させることができますが、それを相対化しまたは無関係の映像までをも含む、膨大な量と圧倒的な質をもっているからです。

YL―『日本の宋元仏画』(至文堂、2001年)は、井手さんのもっとも重要な著作の一つで、この画期的な書物は國華賞を受賞しています。そのレガシーを今日どのように見ておられるのか、少しお話いただけますか?
IS―レガシーといわれると???な部分もあります。
自分勝手にいうとすれば、新しい研究領域を開いた、光を当てたということでしょうか。概念として周縁や境界が議論されていても、実際に如何様にできるのかあまり実践例はありませんでした。調査はかなりしていたのですが、全体像の先行研究がないために作品紹介すらも書きにくい状況が続いていました。あの至文堂の本は、研究所のシンポジウムでの発表で、「境界」美術のアイデンティティーというタイトルがついていた内容を具体的に展開させて述べています。国籍を剥ぎ取った時に何を語りうるのかという問題です。今の若い世代は、奈良博での寧波展で集められて展示されたものからスタートしています。そこから、より精密?に議論が進んでいるように思っていますが、その議論の大前提となっていた国籍を剥ぎ取った時に何を如何様に語るのかという議論は、あまり継承されていないような気がします。あの本や寧波展で一同に集められた諸作例は、それ以前は、あちこちの時空に分散され、まとまりのある一群とはされていませんでした。私はこれらの作品が一同に集められた本来の問題意識を思い起こす必要があると感じています。

YL―井手さんが大きな足跡を残したもう一つの分野は朝鮮半島の仏教絵画研究です。つい最近の2023年にも九州国立博物館で開催された高麗・朝鮮時代の仏教絵画に関する展覧会の企画にも携わりました。この領域はどのようにして発展していったのでしょう?
IS―菊竹先生や鄭于澤氏がいらっしゃらなくては、この領域に関心をもつことはありませんでした。あまり言いにくいのですが、発展的、批判的に継承するにあたって宋元仏画とあわせて考えるようにしたといっていいのかもしれません。朝鮮前期については、最近、関心をもつようになっている領域ですが、高麗の継続という側面だけはなく、朝鮮前期は、高麗と明という二つの規範を如何に自らのものとしているのかという考えに基づいています。これは東アジア絵画史を語る上で、Korea のあり方と日本の有り方の比較検討が重要だと思っているからです。

YL―井手さんは大徳寺五百羅漢図の研究に最も深く関わってみえた研究者の一人で、この著名な作品は2018年にあなたが九州大学において企画したシンポジウムでも取り上げられました。このモニュメンタルな作例に対する理解は、あなたがこの領域に関わり始めてからどのように変化したでしょうか?
IS―私の議論がどこまで浸透しているかわかりませんが、中国の南宋仏画→南宋の寧波仏画→南宋の杭州仏画の可能性と大きく位置づけが変化し、視点もクローズアップしています。位置づけのクローズアップは、同等にクローズアップされた他の諸作例とあわせて、それよりも大きな単位を語るときのDiversityを保証します。視点のクローズアップと Diversityの保証は同時に、水陸会、東銭湖の浚渫事業、恵安院の寺格といった大徳寺本を考えるために不可欠なローカル・コンテクストとも結びついています。私は、いつも等身大に語るという観点から、私が現在、さまざまな状況下で取捨選択しながら主体性を失わずに生きていることを前提とし、それを過去の作例に投影したいと思っていますが、そのような立場からみれば、地域社会から考えるという点に特色があるでしょうか。方聞先生は、奈良博で開催した国際シンポジウムの時ですが、自分の美術史は、西洋的中国美術史だったけれど、私の研究は、アメリカ風にいえば、Social Art Historyであり、大徳寺本の議論は、その点で成功しているようにお話くださって励ましてくださいました。

YL―九州大学で21年間教鞭を執られた後、今月(2025年3月)で退職されますね。現在も東アジアの仏教絵画に関する様々な分野の研究に携わっておられます。今後、若い世代の研究者に取り組んでほしいテーマはありますか?
IS―私が関係してきた領域で若い世代に取り組んでいただきたい研究テーマはふたつあります。
ひとつは、現在進行中で、あと4年間、私も橋渡し役としてとりくむ研究です。
日本伝来の半島由来の文物研究ですが、とくに仏教美術に特化して、韓国の次世代を担う研究者と共同して進めることにしています。仏画以外にも仏像や写経、梵鐘などの仏教美術の重要作が日本に伝存しています。これらのフルカラーでの記録や研究資料としてのデータ化も必要ですが、それとあわせて韓国側の研究者が行っている腹蔵品や信仰背景についての議論は、まだまだこれからで、むしろ日本が教えていただく必要が少なくありません。
もうひとつは、唐絵研究の一環として、江戸時代における唐絵の研究を広範な観点から構想してほしいと思っています。従来、研究の中心ではなかった粉本、模本、伝承作や贋作をふくめて、東アジア絵画史におけるイメージの流通と受容、あるいは逆方向のアクセシビリティなどを東アジア的観点から進めていただきたいと思います。
さらに個別な調査にもとづく研究だけでなく、近代における美術の制度以前のさまざまな東アジア諸地域におけるモノをめぐる制度について、展開してほしいと願っています。


・九州大学韓国学研究者紹介:井手誠之輔教授 聞き手:冨樫 あゆみ(韓国研究センター特任助教)
韓国研究センター年報. 19, pp.5-9, 2019-03-29. Research Center for Korean Studies,
Kyushu University


・《臥遊》中文版名人推薦:井手誠之輔教授
Youtube動画、2017年10月23日、石頭出版社